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ヒストリー・オブ・アロー

大正5年、創業者矢野倖一が製作した国産最古の乗用車アロー号の物語

これは、大正5年に矢野特殊自動車の創業者、故矢野倖一が青年時代、3年という歳月をかけ独力で作りあげ、今なお健在の国産最古の乗用車アロー号の物語です。この車の名前は製作者である矢野倖一の矢にちなんで ”アロー(ARROW)号”と名づけられました。

しかし、なぜ矢野倖一はアロー号を作る事になり、そしてなぜ矢野特殊自動車を設立する道を歩む事になったのでしょうか?そこには運命的な出会いがありました・・・。

1912年 矢野少年 空へのあこがれ

ガソリンエンジン搭載模型飛行機の製作

明治45年(1912年)4月、福岡日日新聞社主催の模型飛行機大会が開催された。審査員たちを驚かせたのは、ゴム動力機ばかりの参加機の中でただ一機、小型のガソリンエンジンを搭載した飛行機が登場したことである。製作者は当社の創業者矢野倖一である。

彼は福岡工業高校の機械科に進み、将来はエンジニアとして、飛行機を手がけるのが夢であった。その飛行機も彼が一年がかりで製作した飛行機であった。

しかし、その飛行機は数メートル滑走しただけで飛び上がる事が出来なかった。だが、審査員たちはその努力と将来性を高く評価し、最優秀の甲賞を贈った。そして、その大会での受賞は新聞に大きく掲載されたのである。それは、倖一少年の運命を大きく変えることとなった。

1912年 村上氏との出会い

フランス製自動車大改造

大会の新聞を持った老人が、倖一少年を訪れた。その老人とは、福岡の実業界で活躍した村上義太郎氏である。村上氏は突然、「うちにフランス製の車(ド・ディオン・ブートン車)がある。壊れているので直してはくれまいか。それに君は飛行機模型に熱中しているようだが、まず自動車をやる気はないか。もちろん飛行機の研究は日本の将来にとって必要だが、時期が早い。自動車も飛行機と同じくエンジンで動く。自動車の研究をして、その後に飛行機に進めばいいじゃないか」と言うのである。村上氏のアドバイスに納得した倖一少年は、自動車の研究を始める決意をする。

しかし、村上氏はただ走れるのではなく、一人乗りの三輪車を二人乗りの四輪車に修理、改造するよう命じた。改造の手がかりはイギリス製小型車の写真と数枚の資料のみ。二人乗りにする作業は新しい自動車を作るのと変わらない。部品もほとんど手作り。3.5馬力単気筒のエンジンやトランスミッションはそのまま使ったが、ラジエーターのパイプは一本一本、銅板を巻いて作り、丸ハンドルを付け、クラッチやキャブレターは交換、アルミ板張りのボデーと折り畳みの幌も自作した。部品を作っては、車体に取り付けてテストをする。具合が悪ければ作り直すといったことの繰り返し。

後年、特殊自動車製作に乗り出すが、その基本はこの時に作られたといっていいだろう。

1916年 アロー号走る

純国産車の製作

大改造が終わったのが明治45年(1912年)12月だった。すっかり自動車にのめり込んでしまった倖一少年は「日本の国情にあった自動車を作ってみないか」という村上氏の強い勧めもあり、何から何まで純国産車を目標に設計にかかった。

そして、全長2.6m、ホイールベース1.8m、水冷4サイクル2気筒、排気量1000cc、10馬力のエンジンを積んだ4人乗りの幌型、構想としてはT型フォードを縮小したような設計図を描きあげた。

自動車の名前は矢野の矢をとり、アロー号と名づけた。すべて国産となると、必然的に手作りになる。シリンダーは鋳造で作り、ピストンリングも加工法を案出し、ベアリングは極軟鋼材を切削加工、銅メッキをしミソなどを用いた手製の浸炭剤で浸炭焼入れして作った。当時は溶接技術が未発達のため、溶接が必要な部分はハンダ付けを行った。ただ、タイヤやプラグ、マグネットなどは外国製品を使わざるをえなかった。

大正4年(1915年)、ついにアロー号のシャシーが完成した。しかし、どうしてもエンジンの調子が出ない。いろいろと調べたが、原因がつかめない。折りしも第一次世界大戦中でドイツ軍の捕虜が収容所の中にいたのだが、その中にベンツのエンジニアがいることが分かり、さっそく陸軍にかけあい、アロー号を見てもらった。動かない原因はキャブレターの不具合であった。エンジニアのアドバイスにより上海でゼニスのキャブレターが売っている事が分かり上海に渡航し購入した。そして、ついにそのキャブレターを取り付けたことによりアロー号も活発に走り回れるようになったのである。

最終的にアロー号が完成したのは、大正5年(1916年)8月24日、矢野倖一、24歳の時だった。計画設計から丸3年。製作費用1224円75銭であった。

1920年 国産初のダンプボディ製作

矢野オート工場設立

こうした倖一のもとにダンプボデーの製作依頼がきた。熊本県土木課から注文を受けた梁瀬商会に在庫がなく、自動車を実際に作ったことがある倖一に依頼がきたのである。

彼は、自動車用スクリュージャッキにヒントを得て、独自にダンプ装置を考え出した。九州に多い炭鉱や鉱山からダンプの需要が相次ぎ、これを機に大正11年(1922年)、矢野オート工場(現、(株)矢野特殊自動車)を設立し、 ダンプボデーなど特殊自動車の製作に乗り出したのである。

当時、社会情勢も熟さず、特殊自動車関係の仕事に追われ、乗用車を作る夢は実現できないで終わりました。しかしながら、その熱意と独創的なアイデアは現在にも受け継がれ、当社の社員のエネルギーとなって息づいています。

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